すっかり遅くなってしまったな。



ここ数日繰り返されている教師とのやり取りを思い出して橘はやれやれと軽く肩をすくめ、鞄を持って教室を後にする。



進路についての呼び出し。



なかなか受験に専念しないのが教師たちは気にかかって仕方がないらしい。

もちろんそれだけではないだろう…あんな事件を起こした自分たちを疎ましく思っているのが見え見えだ。

河川敷のコートで練習する日である今日はいつも以上に時間が無駄にできないと言うのに、思っていた以上に担任ともめて時間を食ってしまい、だいぶ遅くなってしまった。



先ほどの教師とのやり取りを思い出す。

知らず知らずに口元に心中の苦々しさ現れた。



校舎もグラウンドもすっかり静まり返っている。

他の生徒達は皆すでに下校してしまったのだろう。



まだ、あいつらは練習しているだろうか?

と、橘は沈みかけた夕日を見て、一瞬、考えたが、すぐに、そんな連中じゃないな、と苦笑を口元に浮かべる。



可愛いテニス馬鹿な後輩達は時間なんて考えず、ただテニスに夢中になっているだろう。

自分が練習の終了を言いわたしてもまだやろうと駄々をこね、その後も何だかんだ言ってコートからなかなか去ろうとしない後輩達。

少しでも早く彼らの元に行こうと、橘はいつも使わない裏門へと向かった。

こちらから出て裏道を通っていけば、数分ではあるが、早くコートにつけるはずだ。



「ゲホッゴホッ…」

苦しそうに咳き込む音。

不穏なその音に橘は足を止めた。



「ゴホゴホゴホッ」

吐き出すように連続して咳き込む音が聞こえた。

そのあとゼィーゼィーと息絶え絶えの呼吸音が聞こえる。

何事か、と橘はそばの茂みを覗き込む。



「グッ…ぅあー…」

咽喉がある音のあとにややかすれ気味な声が聞こえた。

言葉になりきらない声。

茂みの向こうには人影。

その影を見て、橘はやや眉をひそめた。



軽くウェーブのかかった、黒と明るい茶色の入り混じった長い髪。

体育すわりで壁に身体を預けている。

口は半端に開き、呆然と焦点の定まらない目からは雫が流れ落ちていた。

手元からは一筋の煙。

彼女はふぅ〜と大きく息を吐き出し息を整えたことで一旦静かになったが、それは一瞬の事で、すぐに再び激しく咳き込みだした。



ガサッと橘の横の木が揺れた。

しまったっ、と橘は思ったが、時すでに遅し。

彼女はゆっくりと橘のほうを振り返った。

だが、その目は生気が無く橘を見てはいない。

橘はまっすぐ彼女を見る。

お互いが静かにお互いを見る。



焦点の合わない視線とと意思を宿す強い視線。

最初に視線をはずしたのは橘だった。

視線をやや伏せがちに目を閉じる形で目の前の人物から視線を外す。



どんなに鋭い視線に見据えられても橘は視線をそらしたりしない。

それに向かえるだけの強靭な精神は持っている。

だが、今自分に向けられている何の意思もなく、生気さえもないその視線はとても居心地が悪かった。

それは、目の前の人物の目から、拭われることなく、流れる涙のせいかもしれない。



橘は女の涙というのが苦手だ。

幼いときの妹が泣きながら自分の後をついてくるのを思い出す。

それが全ての理由とはいわないが、泣いた子ども、と女には逆らえないよう橘には身に染み付いてしまっている観がある。

目の前の人物もまた自分から視線をはずしたのが気配でわかった。



橘はそっと視線を彼女に戻す。

目の前の人物の口から上方へ白い息が吐き出され、その白い息はふわふわと宙に消えていった。

その焦点は再び宙に浮いていた。

再び彼女は激しく咳き込みだす。



「…苦しいなら止めたらどうだ?」

橘はようやく口を開く。

他にいうことがあるだろうに、橘は内心苦笑する。



彼女は再び橘の方を見た。

彼女は苦しそうに咽喉を鳴らし、肩で息をする。

橘はそんな様子の彼女を見て眉をひそめる。



「…別に。こんなん、苦しくないし」

雫が流れる無表情なその目で橘を見据え、息を切らして彼女は言った。



「そうは見えないぞ」

橘は彼女の視線を受け止め、静かに言う。



「…そうかもね、でも、どうでもいいじゃない、そんなこと」

そう言って彼女は再び煙を口にする。

視線は再び中空へ。

橘は眉間にしわを寄せつつ、静かにその様子を眺める。



「あなた…テニス部のタチバナ君でしょ?」

口元にだけ笑みを浮かべはそういった。

橘は名乗っていないのに自分の名前を知ってる彼女に、一瞬いかぶしげな表情をする。



「ごめんなさい。色々話を聞くから初めてって感じがしないのよね」

くすくすと笑いながらいうに、橘はなるほど、と内心納得する。



彼は、ある意味有名人だ。

数ヶ月前起こしたことによって。

きっと彼女も噂を耳にしているのだろう。



「…急いでいたんじゃないの、新男子テニス部部長のタチバナキッペイ君?」

苦しそうに眉間にしわを寄せ、白い息を吐き出しながら彼女は言った。

橘は感情を抑えるように片手で顔を覆う。



「…せめて、もう少し軽いものにしておくんだな」



彼女は橘のほうを振り返った。

目を見開いて橘を凝視する。

そのまましばらく橘を見つめ、口元にふっと笑みをこぼした。

彼女の表情に初めて人間らしい変化が生まれた。



「怒るかと思ったけど、そうはしないんだ」

そう言って彼女は火を消し、持っていた空き缶の中にそれを入れた。



「タチバナ君はこれから行くの?河川敷…」

「あぁ」

見知らぬ彼女がなぜそこまで知っているのかと、橘はほんの少し怪訝そうに眉を寄せた。



「…そう」

彼女は一旦目を伏せ、再び顔を上げた。



「ん、じゃ、頑張ってね。ほらほら、練習する時間なくなっちゃうよ」

窓越しに見える教室の時計を指差し、彼女はいつもの笑顔でにっこり笑う。



「…あぁ、そうだな」

橘は彼女に背を向け再び走り出した。

彼女は立ち上がり口元にだけ笑みを浮かべて、それを見送った。



「あれが噂のタチバナさんねぇ〜…確かにアイツ好きそうだわ」

彼女はそう小さく呟きその場を後にした。















『一生懸命に部活に取り組むのは悪いことではないがそろそろ本格的に受験勉強したほうがいいんじゃないか?最後の大会なのかもしれんが、人数も足りないんだろう?引き際を見極めるべきじゃないのか?』



引き際だと?



冗談じゃない。



まだ終われない。



そろそろメンバーがそろわないと大会に間に合わない…そんなことは分かってる。



そんなこと俺たちが一番分かっているんだ。



コンビネーションも一日二日で成り立つものでないことも、そろそろ本格的にミクスドの練習をしなければいけないということも。










■戻■